触れたかった。
尋ねたかった。
確かめたかった。
騙されたかった。
カッタ、カッタ、カッタ……。
真の光が東の空に漏れ始めたのは、それからさらに数十分も後のことだった。
「よく、わからない」
彼は墓標の言葉を呟いて、眩しさに目を閉じた。
(p.584)★★★★★
(ソフトメーカ、テーマパーク、死体消失、事件、天才)ここに完結。
終わったという感じはしないのに、ちゃんと区切りをつけてくれたと思ってしまう。
そして、さびしいとも。
理系人間の私には本当に共感できる文章もあれば、理解するには難しすぎる事柄もあった。
それでも、このシリーズを通して、犀川、四季という人間に触れることができたのが、なによりの収穫かもしれない。
森先生の作品、特に「すべてがFになる」に出会えたのが、このシリーズを読もうと思った一番の要素だろう。
四季に出会えたことが。
ミステリというよりは、世界、雰囲気を思う存分味わえる作品。
疑問点は多々残る。
私は、頭の回転の速い萌絵が、実はわかりやすい人間の性質を持っている点はなぜだろうと思っていた。
作品中の人間は、萌絵を変人の天才のように扱うが、私にとって彼女は人間そのもの。
犀川や四季の方が超越しているように見えた。
その彼女の成長過程を今までに見てきたが、これからどう変わっていくのか。
それが気になる。
あと、犀川が四季に抱いていた感情。
恋慕とか尊敬とか同類とかそんな言葉で片付けるには、あまり簡単に決めてはいけない問題の気がする。
「生命もまた、点滅を繰り返しているのよ」という四季の言葉。
彼の中の声は、彼にしか聞こえない。
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ネタばれ注意↓下記は
http://www.sancya.com/book/book/liter_01.htm
を参考にして。
メモ
・塙理生哉は、8巻「今はもうない」の最後の方で萌絵と遊んでいた子供の一人(もう一人は前作出てきた大御坊)。
・真賀田四季は、再登場ではなく、再々登場。
詳細は5巻「封印再度」の最後。
・各章の引用文はこれまでの作品からもってきている。
・彼らの「その後」については短編へと。
・犀川の喪失と萌絵の解放。
犀川の喪失、これは犀川の人格の中心にある、最も原始的で、計算の速い人格の「喪失」のことを言っている。
真賀田四季の思想に共感し、すべてのしがらみを捨て、研究のみに没頭したがっている人格。
それが、萌絵という存在が犀川の中で大きくなるにつれ、世捨て人として生きたい、真賀田四季について行きたい(10巻ラスト)という人格は失われていく。
また、この原始的な人格は最も子供の人格でもある。
自身の助教授という肩書きによって起こる様々な雑務や軋轢。自由でいたい、という感情が、研究者ではなく社会人として生きていかなければならないという環境によって失われる。
そういった意味での「喪失」でもある。
一方の萌絵は、飛行機事故で両親を亡くした現場を目の前で見た。
そのショックから立ち直るのに、その記憶を意識的に封印していた。
それが、真賀田四季との会見で呼び起こされる。
この会話のシーンは作者も言ってるけど「羊たちの沈黙」のシーンのオマージュ。
そして、萌絵は人の死に絡む事件にやたらと興味を持っている。
それらは全て死に対する恐れの裏返しだった。
だが、10巻の真賀田四季との会見シーンでそれを深く呼び起こされてしまった。
それで、いっぺん西之園萌絵は死んだ。
萌絵の中の、「両親の死の記憶を封印し、死に対し現実感を起こさせない」、そして「両親の後を追って死を望む」という人格がね。
萌絵のミステリィ好きもこれに起因するんだけど、この人格は萌絵の中心にある存在だった。
萌絵もそれまではそういった人格という存在は意識してなかったんだけど、その中心の人格の死(喪失)によって他の人格を意識するようになった。
10巻ラストシーンで犀川の「僕にこりただろ?」の問いに対し、「いいえ」と萌絵のほとんどの人格がこれを否定した、という表現でこれがわかる。
つまり、萌絵にとっての中心の人格の喪失は、萌絵にとって「解放」だったわけだ。